宇陀地方では、少なくとも数十基の前方後円墳を含む古墳が発見されている。この香久山古墳が存在する岩室谷川から本郷川に至る狭い領域だけでも、香久山古墳およびカミリ尾古墳を含め、数基の古墳がある。香久山古墳は横穴式石室を主体とする古墳で、昭和58年(1983)に発掘調査された。その報告によると外部直径18メートルの円墳となっているが、前方後円墳である可能性は否定されていない。
主体部である横穴式石室は北23度方向を主軸方向とし、南面に開口している。その規模は、羨道の幅1.2~1.3メートル、高さ1.4メートル、奥行き4.72メートル。玄室の長さ、西側で3.88メートル、東側3.6メートル、幅は奥壁部で2.06メートル、玄門部で1.94メートル、袖部は東側が0.38メートル、西側が0.34メートルの両袖式構造とっており、玄室の高さは3メートルある。この石室は旧宇陀郡内の古墳では最大規模のものとされる。副葬品としては須恵器、高坏など破片を含め十数個、土師器、鉄鏃、耳輪などのほか、埋葬用木棺に用いたと思われる鉄釘16本が見つかっている。被葬者は不明。築造は6世紀後半と考えられる。
参考資料: (大宇陀町史 平成4年)
* 用語解説
・ 羨道(せんどう、エンドウとも): 横穴式石室の玄室と外部とをつなぐ通路部分。
・ 玄室(げんしつ):横穴式石室の主要部分で棺を納める室。
・ 須恵器(=陶器)(すえき):古墳時代後期から奈良・平安時代に行われた、大陸系技術による素焼の土器。良質粘土で、成形にはろくろを使用、あな窯を使い高温の還元炎で焼くため暗青色を呈するのが一般。
食器や貯蔵用の壺・甕が多く、祭器もある。
(広辞苑第五版による)
(古墳時代における香具山古墳の位置づけ)
古墳時代とは、弥生時代が終わる三世紀半ばから六世紀末、飛鳥時代に至る約三世紀半続いたわが国古代の一時期を指しています。日本独特の前方後円墳は、円墳とともにすでに古墳時代の初期から造られていました。
最も早期の前方後円墳には卑弥呼の墓ではないかとされる奈良県桜井市の箸墓古墳などがあります。五世紀になると、大規模な前方後円墳がいくつも造られるようになり、中でも大阪府堺市の仁徳陵は世界最大の墳墓として有名です。前方後円墳、円墳いずれの場合でも、棺は円墳部分の中心から真下に向かって掘った竪穴の底部に石で囲った墓室を造って安置しました。この様式を竪穴式と呼びます。
時代が下るに従って、石組みによって築いた羨道と玄室をもつ墳墓が造られるようになりました。横穴式と呼びます。六世紀に造られ、巨大前方後円墳としては最後のものだとされている奈良県橿原市の丸山古墳はこの横穴式の古墳です。先に述べた五世紀を代表する巨大な前方後円墳群や、それより以前の古墳は竪穴式ですから墓室は円墳部中央の真下に位置しています。
これに対し、丸山古墳では玄室、つまり墓室は、真ん中ではなく、入り口(羨門)側に近く偏った位置にあります。人力ではとうてい動かせないほどの大きな自然石をいくつも組み合わせて横穴を築造するのですから、その規模に自ずと限界が生じたことは想像に難くありません 。それが理由かどうかはわかりませんが、ともかく、墓室に到るアクセスの築造方法が墓室の位置に影響したことだけは確かなようです。
横穴式の古墳が造られるようになると、巨大な古墳は急速に姿を消して、岩石、それも出来るだけ大きな自然石を積むことそれ自体が古墳の本体として重視されるようになりました。巨石へのこだわりは私たちの祖先が、巨大な自然物にはあまねく神が宿ると考えて崇拝していたことを物語っているようです。その究極の姿は奈良県明日香村の石舞台古墳にみることができます。石舞台古墳は古墳時代の掉尾、七世紀初頭に造られました。蘇我馬子の墓だといわれています。造られた当初の墳丘は失われ、いまは露出した壮大な石組みだけの遺跡になっています。
ひるがえって香具山古墳は、墳丘が残っていることや、規模が小さいことなどいくつかの点で違いはあるにせよ、その基本的な構造は石舞台古墳と同じです。香具山古墳が造られてから間もなく、わが国は輝かしい飛鳥時代を迎えることになります。
(この項管理者:Dr. Takatoshi .Inoue M.D & Ph.D,)
(日本の古墳について最も優れた研究者はイギリス人冶金技 士ガウランド【William Gowland1842-1922】です。)
彼は明治の初期、まだ宮内庁による立ち入り規制がなされる以前のいくつかの古墳を調査することが出来ました。ガウランドはまた、”日本アルプス”の命名者としても知られています。)
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(古墳内部の写真)
入り口 (羨門)
羨道と奥の玄室
玄室北西角天井付近の石組み
玄室から見た羨道と開口部(南)
4写真:Dr. Takatoshi .Inoue M.D & Ph.D,
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